

高知県立坂本龍馬記念館館長
1941年 中国・張家口 生まれ
1965年 私立立命館大学・文学部(中国文学科)卒業
高知新聞社入社・社会部
1992年 東京支社次長兼編集部長
1998年 高知新聞企業出向
2002年 企業退職後、新疆ウイグル自治区・新疆大学に語学留学
2004年 同大漢語2年課程修了・帰国
2005年 高知県立坂本龍馬記念館館長に就任 現在に至る。






「4歳の時に中国から大阪へ帰ってきましたが…そのころ大阪や東京などの都市部は引き上げも手伝って人口過密状態にあり、食糧が明らかに不足していました。そのため母の故郷でもある高知県へ移ることとなり、訪れたのは土佐町の南川地区。そこで父は教員として勤務する学校へ向かうのですが、レッドパージ(※1)によって教壇には立てずにいたらしいのです。当時は住む家も無かったため、町民の方たちが公民館に案内してくれて、そちらで1~2年生活をしていました。」
幼少期に大陸から日本へと移り、戦後の動乱の時代を懸命に生き抜いた森氏。父親が受けた政治的弾圧などの記憶も、のちに坂本龍馬の魅力を多くの人へと伝える原動力になったのかもしれないと記者は感じた。(※1 レッドパージ:共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の時期に公務員や民間企業において、日本共産党員とその支持者であると判断された人々が退職させられた動きを指す。1万人を超える人々が失職した。)
「地元の高知新聞社に入社し、配属先の社会部では主に警察や司法関係の担当記者をしていました。当時は事件記者というテレビ番組も放送されており、世間的にも花形の職業で、自分が報道の第一線にいるという実感がありましたね。」
報道という仕事を通じて、社会の仕組みや様々な問題点に触れることとなった記者時代。この頃に2冊の書籍を出版しておりいずれも高い評価を受けている。話は東京支社で次長兼編集部長をされていた頃へと続く。
「忙しい日々が続くなか、各新聞社や共同通信社の方たちと出会い、多くの方と交流を深めていきました。あるとき中国大使館の方と知り合う機会を得て、その方から中国の話を聞くうちに、中国…特にシルクロードに興味を持つようになりました。」
「シルクロードへは新聞記者時代に何度か訪れました。通訳を介してのやり取りのなか、同じ質問に対して、訪中するたびに違う答えが返ってくるといったことがありました。現地の生の声や文化を知るには、まず自身が勉強をして体験するのが一番だと思うようになったのです。そこで、中国留学を決意しました。」
時に、森氏60歳。当時在籍していた高知新聞企業を退職したのが6月、何とそのたった3ヵ月後の9月には中国行きを果たしたのだった。しかし、周りの反対や不安などは無かったのだろうか…?記者の心中を察するように、退職から留学実現までを語ってくれた。
「60歳での海外留学だなんて、妻は猛反対でした。私の父親も当時85歳で健康状態も良好とはいえませんでした。しかし父自身が中国にいたこともあり、特に父からの反対はありませんでしたね。最後まで妻には反対されましたが、何度も説得した結果『勝手にしいや』の一言で決まりました。」
そして、高知新聞社時代の友人や知人が開催してくれた壮行会ではこんなエピソードも。
「普段は人前であまり喋らない妻が、『老いた父を残し、いいかげんな事をする旦那を持って大変です。男のロマンは、女の不満です。』と(苦笑)。留学を許してくれた妻には本当に言葉に出来ないほど感謝しています。資金は、夢を抱いていた在職中からコツコツと貯金していました。退職金を使うと言ったら妻にはますます反対されるので、退職金を身代金代わりにして中国へ行きました(笑)。」
ついに森氏は新疆ウイグル自治区・新疆大学への語学留学を実現し2年間の留学生活をスタートさせる。当時の様子を、少年のように目を輝かせ楽しそうに語ってくれた。
「普通、留学生といったら学生寮に入るものですが、私が60歳ということで、各国から来ている留学生の中でも最高齢であったため、大学内にあるホテルの来賓客用の部屋を使わせてもらいました。部屋は308号室。ホテルのスタッフからは『308の爺爺(中国語でイエイエ:お爺さんの意)』と呼ばれました。また大学では教授が『モリサン』という日本語を覚えてくれたおかげで、生徒たちも私のことを『モリサン』と親しげに呼んでくれました。本当に色々なことを体験できたし、とても充実した2年間になりました。生涯忘れることは無いですね。」
その間、中国の文化や自然に触れ多くのことを学んだという森氏。60歳という年齢で自身を向上させようというアグレッシブな姿勢は、座右の銘でもある「前進と勇気」そのものだと感じる。
そして、高知へ戻り1年後。高知県立坂本龍馬記念館・館長に就任することとなる。
「ここから眼前に広がる太平洋を見つめていると、シルクロードにあるタクラマカン砂漠とダブって見えました。海の碧さと砂漠の砂…色が違うだけで、地平線が呼びかけているのを感じました。その時に何か運命的なものを感じ、ここで坂本龍馬について勉強をしながら館長をやっていく決意をしました。」
記念館の館長ということは、以前から大の龍馬ファンだったに違いないと勝手な想像をしていた記者。そのことを尋ねると意外な答えが返ってきた。
「いえいえ。就任以前は皆さんと同じような漠然とした『坂本龍馬』のイメージしかなく、特に興味があるわけではなかったのです。館長に就任したのが2005年8月。ちょうどお盆で来館者が最も多い時期でした。意外にも若い方や子供たちが多くて、それまで想像していた記念館とは全く違いましたね。特に子供たちは龍馬に関する多くの資料を熱心に見て、そこから伝わってくる坂本龍馬という人物像を純粋に感じ取っていました。これほどまでに人を魅了する『坂本龍馬』とはどのような人物なのか、そのとき初めて龍馬のことをもっと知ってみようと思いました。」
坂本龍馬に興味を持ち、最も魅力を感じた部分は「優しさ」だと語る森氏。
「龍馬に対してよく言われるのは『先見の明がある』『実行力・決断力がある』という事。でもそれは他の偉人にも言える事で、龍馬にはもう一つ『優しさ』というキーワードがプラスされます。優しさの根源は『自由』そして『平等』。新しい日本創り目指した、わずか33年の命でした。まさに私心なき命がけの潔さ、それが魅力だと思います。来館者が龍馬へ送る手紙『拝啓龍馬殿』というものがありまして、それが総数1万2千通にもなり、日本全国ときには海外の方まで手紙を書いてくれていました。その多くに『優しい』という言葉が含まれていて、【生まれてくる子供には龍馬のような優しい人になって欲しい】【龍馬のような優しい男になりたい】などと書かれています。今の日本では当たり前の自由や平等が龍馬の生きた時代には無く、それを実現しようとした彼に数多くの人が『優しさ』を感じるのは当然かもしれませんね。『龍馬の魅力とは?』と尋ねられたとき、やっと自分の考えが言えるようになりました。」
記者は生まれも育ちも高知県だが、自分の言葉で龍馬の魅力を語れないことに気付き、少し恥ずかしくなった。私を含め、高知県民の大半は坂本龍馬という人物の魅力を知らないのかもしれないと思う。そのような現状を森氏は次のように語った。
「日本全国から来館する龍馬ファンの中で、高知県民は1割ほどしかいません。館としては県内の方にもっと来館してもらって、龍馬のことを知ってもらいたいのです。2010年のNHK大河ドラマに坂本龍馬が取り上げられることで、県外から多くの観光客が訪れるはずです。そのときに高知県民が少しでも坂本龍馬のことを語れるようになって頂きたいと思っています。以前『幕末土佐の刀剣と鍔』という企画で展示会を開催した際、普段は少ない高知県の方が多く来館されました。違った切り口の企画をどんどん行い、高知県民が坂本龍馬、ひいては高知県を全国に自慢できるようにしていきたいです。」
大変ご多忙な時期にもかかわらず私どもの取材を快諾してくださった森健志郎様には、社員一同心から感謝申し上げます。誠にありがとうございました。一時間ほどの短い時間でしたが、熱く語って頂いたシルクロードや中国、そして坂本龍馬への想い。時が許すならばもっとお話を伺いたいと感じました。
森氏にお会いした印象は…とても大きく、深く、そして温かい、まるで高知の海のような方。皆様もぜひ坂本龍馬と館長を訪ねて記念館へ足を運んで頂きたいと思います。